【cotaka連載3】うつ病をこえて〜1回目のメンタルセッション

この記事は、cotakaさんのブログの転載記事です。

cotakaさんはメンタルコーチである矢作のクライアントさんです。

矢作のセッションを受けて、5年以上にも及ぶうつ病を見事、完治されました。
cotakaさんが長年のうつ病をたった2ヶ月で完治させた軌跡の全てをこれから連載で語ってくれます。

楽しみにご覧ください。^^

今回は、連載3回目の記事です。

目次

人生に影響を与えるビリーフとは

人にはみんな、「ビリーフ」というものがある。
日本語にすると「思い込み」が近いだろうか?

「思い込み」と違うのは、その存在がほとんど無意識領域にあって自覚することが難しいことだ。

本来ビリーフはその人が生きていく上で身につけた「知恵」のようなものなので、ビリーフを持つこと自体は悪いことではない。

ただそのビリーフが、メンタル上望ましいものではない時が問題だ。
困ったことに、人は無意識領域にあるものに、強力に影響を受けてしまうようにできている。

なので自分が自覚できない、得体のしれないものに、人は強力に引きずり回されて苦しむことになるのだ。

僕のビリーフ

自分で自覚することが難しい「ビリーフ」にどうやって気づくか?
自分だけで見つけることが出来ないのであれば、メンタルコーチの手助けを借りることになる。

僕の場合もそうやって見つけた。
体験セッションを受けた際、コーチの矢作さんに指摘された僕のビリーフは、
「ちゃんとしていなければ、何かを成し遂げなければ自分に価値はない、愛されない」だ。

とはいうものの、実は当初、これがよくわからなかった。
体験セッションで指摘されてから、1回目のセッションを受けるまでの期間、このビリーフについて暇さえあれば考えた。

でもわからない。
なにがわからないかも、わからない。
考える度に、確かに心はザワつく。

ザワついて、なんだかいたたまれないような気持ちになるから、指摘されたとおり、ここにはなにかはあるのだろう。

でもそれが僕のビリーフですよと言われても、どうしても実感することが出来ない。

「あーそうですか。そうなんですね。」というふうに、どこか他人事なのだ。(わからないなぁ・・・。)

この時期はそんなことばかり考えて、やきもきしていた。
ともすれば、中途半端に自分の深いところを覗いてしまったことを少し後悔していたくらいだ。

1回目のセッション当日

自宅から待ち合わせ場所の東京へ向かう車内で、僕は考えていた。

「これからどんなメンタルセッションが行われるかわからないが、そう簡単に僕のネガティブな感情がなくなるわけはない」と。

その考え自体がすでにネガティブだ、と言われれば確かにそうだろう。
でも、考えてみて欲しい。

僕は小中学生のころから、心の中のモヤモヤを感じてきたんだ。

そのモヤモヤは時として、両親を含めた家族や友人や同僚や上司との人間関係であったり、理想の自分とのギャップであったり、漠然とした未来への不安だったり、姿を変えながら僕を苦しめ続けてきた。

そして、そのモヤモヤに対して何もしてこなかったわけじゃない。
本もたくさん読んだ。人に相談もした。高額な心理学セミナーも受講した。毎日一生懸命考えた。

今日より少しでも良い明日を迎えるために、30年近く必死であがいてきたんだ。

それなのにその結果が、5年におよぶ「うつ病」をはじめとした心身の不調、異動せざるを得ない上司との確執などなど、破綻直前の人間関係だ。

僕が、自分の未来が明るいとはどうしても思えなかったのも、無理がない話だと思う。

ひとつだけ決めたこと

ただ、僕が実際にセッションを受けるにあたって、ひとつだけ心がけたことがある。

それは、「コーチのアドバイス(フィードバック)をまずはやってみよう、やってみて感じた疑問や感想はすべてコーチに伝えよう」ということだ。

コーチに依存する気はさらさらないが、どうせこれ以上状況が悪くなったら死ぬだけだし(当時は本当にそう思っていた)、最後にコーチの言うことを素直に受け止めてみてもいいだろうと考えていた。

またコーチの矢作さんには、実際に僕にそう思わせるだけの情熱を感じた。
そしてこの時の判断が、僕を長い時間の苦しみから脱出させ、自分の経験を通じて人を助けたいという道に入るキッカケとなった。

1回目のセッションスタート

セッションがスタートして、最初に確認したことはネガティブな感情というものについて。

ネガティブを手放す(なくす)ために必要なことはなにか?
それはネガティブを「きちんと感じる」ことだ。

ネガティブをきちんと感じないと、そのネガティブを手放すことはできない。
暗闇にいる「何か恐ろしいもの」に、「おばけ」や「妖怪」という名前をつけて初めて戦うことができるのと似ている。

僕の場合、
「ちゃんとしていなければ、何かを成し遂げなければ自分に価値はない、愛されない」
というビリーフから生まれたネガティブな感情は「さびしい」だった。

「怒り」や「焦り」、その他うまく言葉にできないさまざまな「心のモヤモヤ」も、大元には「さびしい」という感情があって派生してきたのだった。

僕が毎日感じているネガティブを手放して、ビリーフをなくし、それに続く「うつ病」を解決するためにまず初めにやることは、「『さびしい』をきちんと感じること」だったらしい。

「らしい」と書いたのは、初めて「ネガティブな感情をきちんと感じましょう」と矢作さんに言われた時、僕には意味がわからなかったからだ。

(もう十分感じてるし。感じているからこんなに気持ちが落ち込んでるんでしょ。
だから悩んでるんでしょ。これ以上なにを感じろと?)
そんなことを考えていた。

今なら理解できる。

この時の僕はまだ「さびしい」を「きちんと」感じていない。
心の中のネガティブな感情を「なんとなく」感じているものの、その大元にある「さびしい」は感じていない。ずっと無意識に逃げていた。

そのことにも、「さびしい」を「きちんと」感じられた時に初めて気付いたのだけれど、それはもうちょっと後の話。

まずはさびしいをきちんと感じる練習として、「僕はさびしい」を理解することから始めた。

1回目のセッション中に行ったワーク

「僕はさびしい」という状況を客観的に理解するために、子ども時代の自分を目の前に想像した。

自分自身のこととしては理解できなかった「僕はさびしい」という状況が、子どもである自分を見ると理解できた。

「ああ、この子はさびしそうだなぁ・・・」といった感じだ。
その子どもがさびしがっている状況を十分理解して、「そりゃ、さびしいよなぁ。かわいそうになぁ。」と感じてから、同じような視点で現在の自分を眺めてみて驚いた。

僕はどうやら、「さびしい」のだ。
両親も健在で、毎日仕事があって、妻もいて、子どもも2人いるのに、自分がさびしくみえて仕方がない。

「そうか・・・さびしかったのか・・・」と思わず言葉に出した。

ただ、これでもまだ、「きちんと」さびしいとは感じていなかった。
目の前のこの子どもがさびしいなら、同じ状況の自分だってさびしいよな、といった感じだったろうか。

長いあいだ、無意識とはいえ僕は自分を守るため、一生懸命感情を感じないようにしてきたんだ。

そう簡単に感情を感じることなんてできない。

でもその時はそんなことにも気づかず、「僕はさびしい」という「状況を理解」して、1回目のセッションを終了した。

>第4回へ続く

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